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    「君に云つとくが、何んだぜ、小倉組の者なんかにかゝり合ひをつけちやいかんぜ」

    「怪我人ができたのかね」

    高間家の先祖はもと、川上の小藩のお抱医であつたが、明治初年の廃藩と同時に医をやめて、此の河原町に移住した。高間家に残つている古ぼけた一葉の写真によると、それは老後の殆ど死の一年前位の肖像ださうであるが、一人の容貌魁偉な、真白な髪をたらした、眼の柔和な老人が見える。これが医から農に転じた人であるが、何故彼が永年家の業であつた医をやめて鋤鍬を手にするやうになつたか審つまびらかでない。はげしい時代の変遷の中で様々な人間の浮沈を見て過したことが彼にそのやうな心境に達せしめたのか、それとも他のやむを得ない事情があつたのか、あるひは何よりも平凡を愛する性癖が強かつたのであるか、一切不明である。だが、はじめは乞はれるまゝに近所の人達の脈はとつたこともあると云はれているし、又、対岸の河原町にこれも古くからの医家があつて、そこからの圧迫が随分はげしく、遂には誰に頼まれても脈はとらなくなつた、ともつたへられている。

    結婚してもう三四年になるが、いまだに出たり入つたりを繰り返している茂子は、練吉にとつては三度目の妻だつた。最初のは男の子を一人のこして去つた。二度目は半年もたゝないうちに大石の方から帰した。今度の茂子の場合だつて、当人も居辛からうが、大石の側でも面白くはない、どうでもいゝと云つた調子であつた。そして、ふしぎなことにはかういふ態度は大石の正文老夫婦から出ているので、練吉の方は吾不関焉われくわんせずえんといつた風があることだつた。

    三十分もたつた頃、自動車は角屋の表で停つた。そこは国道が河原町に入らうとする曲り角で、角屋は国道に沿ひ、裏は河に臨んだ旅館である。責任者としての房一と神原喜作がそこにやつて来た時には、署長はまだ加藤巡査の報告を受けている最中だつた。若し房一達の来るのがもう少し遅れたら、加藤巡査の報告もあやふやになり、署長はじめを現場へ案内せざるを得ない破目はめにもなつただらう。そして、事は出張所の消防演習を火事と誤認して人だかりがしたのに過ぎず、事実が判明するにつれて漸次分散して行つた、といふことに落ちついた。全く一時は成行を憂慮された事態も、落着してしまへば、事実その通りにちがひなかつたのである。

    「かりに、おれが真正面から反抗的に出て、それがために住みにくくなつたとしても、同じことだ」

    房一は急いで膿盆をひきよせた。

    だが、そのとき、この野心の塊かたまりのやうな若い医者に前もつてたゝみこまれていたさまざまな思案が頭をもたげた。この機会をのがしてはならないぞ、さう思ふのといつしよに房一は急に形をあらためた。

    「なにしろこんな狭い田舎ぢやから、何事もねつうやる。それをやらんと後がうるさい。自然評判を落すといふことも起るかな」

    房一はその黒い顔に微笑をうかべながら今泉を見た。

    間もなく相沢に案内されて、房一は病室へ通つた。外で見るよりはよほど広い家と見えて、廊下を何度か曲つた末に暗い突きあたりの襖が相沢の手で開かれて、房一がそこに踏みこんだとき、庭の向ふに立つ白壁の方から反射する逆光線の中で、かなりに広い部屋のまん中には床が敷きつ放しにされ、その上にごろ寝したまゝ雑誌を読んでいた息子の市造が、足音で気づいたのだらう、半ば起きかけて、入つて来る者をぢつと眺めているのを見た。

    急いであたりさはりのない返事をすると、今泉はもう隣りの人の方を向いて挨拶をした。

    やつとこさ、さう云つた。まだ本当とは思へない、だが他には考へやうもない、そのたつた一つのことが、彼が医者としてあんなによく知り抜いている生理上の一現象が、又当然いつかは起りうると承知している筈のことが、今や目の前へぶら下げられた一包みの果物か何かのやうに、突然そこに持ち出され、いやでも彼の全注意を惹いているのであつた。いや、それどころではない、今そこに立つている盛子、白い割烹着に包まれ、すらりとした伸びやかな身体までが、その微笑している切れの長い眼つき、悪戯いたづらつぽさと羞はにかみとのまざり合つている様子だの、そのすべてが、何かしら微妙な、手で触れにくい、不思議な物として見えたのだつた。

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