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「誰?相沢の知吉さんかね」
「いいや、子供は助かった代りに看病かんびょうしたお松が患わずらいついたです。もう死んで十年になるですが、……」
もう日盛りの時刻はとつくに過ぎていたとは云へ、半ば傾いてそのためによけい濃くなつた日ざしは河原町の上に、それに沿つてゆるく曲つた川、周囲の山地の上に、こゝぞといふ風に照りつけていた。
「いやあ、もう沢山ですなあ。さつきはどうも照れ臭くつて弱つたぢやありませんか。何と云つたつて、皆に顔を見られるんだから、たまつたもんぢやない。あんなに弱つたことは生れてからはじめてですよ」
黒光りのする戸棚の蔭からびつくりしたやうな義母の円つこい眼がのぞくと、
すさまじい怒気のやうなものが、房一のあらゆる部分に燃え立ち、彼のいかついむくれ上つた肩は二倍も大きくなつて見えた。それに圧倒されたものか、物音は止んで、房一が何かしきりと云つているのが聞えたが、間もなく二三人がごそごそ土手を降りて行つた。
盛子は、歯切れのいゝピツと語尾の跳ね上るやうな調子で、愛想笑ひをしながら小谷に訊いた。
そして、少し横手に身をひきながら、しげしげと房一を眺めた。感慨無量、と云つた態ていであつた。
「さうなんですよ。ですが、よく考へたもんだと思ひましたね、足もとから鳥が立つ、といふでせう、――あれとそつくりにね、かうひよいとカワラケがとび出すんですよ」
と、舌ざはりの悪いものでも口にしたやうな調子で、練吉はぽつんと云つた。
不幸なことに房一の予測はあたつた。いや、それ以下とも云へた。
彼はこの「黒」と呼ぶ馬を非常に愛した。彼の家の裏に、大きな納屋があつて、納屋の隅が馬小屋風に床板を張り羽目板を張つてあつた。彼はひまさへあれば馬小屋に出かけた。次兄が馬の世話をする役であつたが、房一はその傍に煩うるさくつきまとつて離れなかつた。次兄は馬の世話をするのはそれほど好んではいなかつたが、あまり房一がつきまとふので、一種の矜持きようぢを感じて来て、房一には少しも手出しをさせなかつた。それで、房一は次兄の眼をぬすんで、馬に水をやつたり手から草を喰べさせたりした。馬が草をむしるやうにして喰べる、その度に房一の手に快い動きがつたはつて、彼は身ぶるひのつくほどうれしかつた。夏の夕方、馬に水浴をさせる、それが彼には何より楽しみであつた。次兄が彼を馬の背に抱へ上げてくれる。彼は小さい身体を弾はずませて、鬣たてがみを指の間でしつかりと捉む。次兄が彼の背後にのつて、彼等は蒼然と暮れかゝる家の前の路に出る。日は大分前に落ちているが、空はまだすつきりと明あかるい。路の傍の青田の上にうす青い影のやうなものが一面に漂つて、どこからか煙の匂ひがする。土堤から河辺に下りる路は狭く急だ。馬ががくりとその路に足を踏み下すと同時に、背上では房一と次兄が大きく前のめりになりさうだ。危く左右に揺れて岸辺に出る。水面は黒く青く、遠く白く光つている。腹まで水に漬つかる場所に来て、馬は鼻面でちよつと水にふれ、首をふる。房一の足にもう少しで水がとゞきさうだ。瀬の音が急に下手から水面を匍ひ上つて聞える。房一はわざと鬣から手をはなしてみる。落ちはしない。彼はふりかへつて兄の顔を見て微笑する。彼は自分一人で馬に水浴びさせたいと思ふのだつた。
それは何かしら長い退屈な時間だつた。香煙はまつすぐに立ちのぼり、二尺ばかりの高さでゆらゆらし、蝋燭の灯はそれに答へるやうにまたゝいた。さつきまで思ひ思ひの世間話に身を入れていた連中は一瞬厳粛になり、それから放心し、今一律に無表情のまゝぢつとしていた。その中で、大石練吉は今も頭をまつすぐに持ち上げて仏壇の方を眺めていたが、間もなく千光寺の住職の剃り上げた後頭部に人並外れて骨が突出し、その下にぺこんとした凹みのできているのを発見し、しきりとそれを見つめていた。